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日本の世界遺産を巡る旅 明治日本の産業革命遺産 軍艦島(端島)

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明治日本の産業革命遺産 ~ 製鉄・製鋼、造船、石炭産業~  産業遺産・2015年登録 明治時代の日本の近代化を牽引した製鉄・鉄鋼、造船、石炭産業に関連する23資産の総称 岩手県から鹿児島県まで8県11市にまたがるもので、 現在も稼働している工場なども含まれています すべてを一度に回ることが難しいため、世界遺産登録前に訪問した資産から順次公開します 軍艦島 (端島・長崎県) 長崎港から南西17km・ 船で約40分、長崎半島の西に浮かぶ小さな島が端島(はしま) 通称「軍艦島」です 海が荒れる11月~3月は上陸ができない日も多いですが、まさに海が荒れた2015年1月の中旬に訪問しました 今回お世話になった『軍艦島コンシェルジュ』は 上陸率99%を誇るツアーを行っています 出航率90%・上陸率99%の秘密は HP で 大荒れの海の中を進みようやく見えてきた軍艦島 ここから接岸までが最後の難関となります 軍艦島唯一の上陸箇所「ドルフィン桟橋」 外海で防波堤もない固定桟橋のため、接岸が非常に難しくなります 浮き桟橋でないため、波と共に上下しないので上陸の際もかなり船が揺れます 桟橋に接岸した様子 後ろに上陸を待ついくつかの船も見えます 上陸直後の風景 台風などの際は島を覆うほどの高波が押し寄せるため、分厚いコンクリートも破壊されています 軍艦島は220mの見学コースと3箇所の見学広場のみ一般開放されています 第1見学広場からの風景 石炭の積み出しのための貯炭場があった場所です 山の上の建物は管理職や医師などが住んでいた「3号棟」 唯一各家庭にお風呂があった建物です 石炭の積み出しに使用されていたベルトコンベアーの跡 昭和16年には年間41万トンもの石炭をここから船で積み出していました 奥に見える7階建ての建物は端島小中学校 給食配膳用ながら唯一エレベータがあった建物です 建物の裏手には狭いながらもグランドがあります 運動会は島民総出の一大イベントでした 第2見学広場からの風景 レンガ造りの建物は炭鉱の総合事務所 右側の階段のある小さな建物は第2縦坑の抗口です ここからエレベーターで海底

日本の世界遺産「平泉」を巡る旅 2014年8月

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平泉-仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群-  文化遺産・2011年登録 浄土を表す5つの寺院、庭園及び考古学的遺跡で構成されています 特に浄土思想の考え方に基づいて作られた寺院・庭園がまとまって残っています 中尊寺 (ちゅうそんじ) 850年に比叡山延暦寺の高僧慈覚大師円仁によって開かれた「関山 中尊寺」 12世紀のはじめに奥州藤原氏初代清衡公によって大規模な堂塔造営が行われ現在の形となりました 金色堂に向かう参道の途中にある本堂 天台宗の東北大本山でもあります 1337年の火災で焼失しましたが、 明治42年(1909年)の現在の本堂が再建されました 金色堂が収められている新覆堂 内部は撮影禁止のため金色堂の写真はありません 1124年に上棟され火災の被害にも遭わなかったため、 建立当時の姿を保っています 極楽浄土を具体的に表現するため、 当時の工芸技術が集約されています 新覆堂の隣にある旧覆堂 金色堂を風雨から守るため1288年に建設され、 新覆堂が完成する昭和38年(1963年)まで使われました 昭和40年に現在の場所に復元されました 内部は自由に入ることができます 毛越寺 (もうつうじ) 850年に慈覚大師円仁が開山し、藤原氏二代基衡公から三代秀衡公の時代に多くの伽藍が造営され、 最盛期には堂塔40、僧坊500を数え、中尊寺を凌ぐほどの規模と華麗さであったといわれています 現在は建物が焼失してしまいましたが、 大泉が池を中心とする浄土庭園と平安時代の伽藍遺構はほぼ完全な状態で保存されています 東西約180m、南北約90mの池のほぼ中央に勾玉の形をした中島があります 平成元年に建立された、平安様式の新本堂 本尊は平安時代作の薬師如来 開山した慈覚大師円仁を祀る開山堂 観自在王院跡(かんじざいおういんあと) 二代基衡公の妻が建立したと伝えられる寺院跡 平安時代に書かれた日本最古の庭園書『作庭記』の作法どおりの 浄土庭園の遺構は、 ほぼ完全な形で残されてい ます 無量光